おねいさんのお日記みせちゃう

どっかのおねいさんの日記

好きと重さ

また来た。「好き」が分からない時期が。厄介なことに今回は「趣味、好きなことの好き」ではなく「人が言う、愛してる系の好き」がすっかり分からなく、また感じられなくなってしまった。

今は、「好きだ。」と誰かに言われても耳では聞いているのだけれど、心は「聞きたくない。」と言わんばかりに頑なな栓がしてあるようなのだ。

有名な哲学者は、幸せとは何か?と考えている間は幸せではなく、幸せとは何かと考えていないときこそ幸せ(・・・・だったっけ?)という言葉を残している。

物、物体ではないものはどうしてもその尺度というものが分からない。

人はどうしても尺度や条件づけられた確かなものを信じたいと思うつくりになっている。その尺度の決まっていないものも尺度で考えてしまう。

不幸だとは思わないけれど、幸せを感じられない原因はこれ!?

また別の哲学者は、幸せは少ないもので満足する能力を育てること(・・・だったっけ?)と説いていて、これはどうしても幸せを尺度で求めてしまう私たちに、尺度で求めちゃうのは仕方がないから小さな物差しを持っていなさいと言ってくれているよう。

 好きの話に戻る。好きも幸せと同じように尺度では表せないものだ。・・・尺度について少し話したけれど、私は好きの尺度を考えてわからなくなっているのではない。相手の好きという思いがまっすぐなのか信じられないのだ。

あ、でも今思った。今は「軽い、愛してる系の好き」が信じられない状態だということが。好きが分からないと思い始めたきっかけは、ネットの男友達でよく好き好き言ってくる子と紆余曲折あって連絡を取らなくなったからだ。

電話をする度に「めるとちゃん、好きだよ。」と恥じらいもなく言ってくる。

「可愛い。」と顔も見たことないのに言ってくる。私は生返事をしていたのだけど心の隅ではちょっと嬉しいな、なんて思っていたのだろうか?相手も話は面白い人だったから電話しているときはやっぱり楽しかったし・・・。そういうところは上手だと思った。

その紆余曲折というところは、傍SNSの他の女の子に私には19歳と言っていたのだけれど14歳と嘘(実際いくつなのかわからない)をついてお泊りに行くと話していたのを見かけたから。

その、他の女の子は男友達をかなり好いているようだったので、面倒ごとを避けたいために何とか男友達とさよならしたいなーと思っていたら、某SNSで男友達が嘘つき野郎ですってそのまた他の女の子晒されていてその流れに乗っかって縁を切った。

それ以来、簡単に私を好きという人は軽い人とみなしはねのける反射的行動パターンが身についてしまったんだと思う。

家族とか親しい人からの好きは言われて気分がいい。でも顔も知らない浅い関係にある人から言われる「愛してる系の好き」はなんかなあ。重い好きが好きなわけではないけれど、軽い好きはからかわれているようで嫌。

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